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GOAL三条大橋
12月14日 曇り
早朝、新横浜から新幹線で米原 それから東海道本線石山駅へ向かうが
岐阜県に入ると先方の山々が灰色の垂れ幕を被せたように見えず嫌な予感は他所に
近江国は曇り空の下 石山駅前10:00のスタートです。

石山駅を発って膳所城勢多総門跡までに一里塚跡有ったはずだが見落としてしまった。

武家屋敷の門をお寺に移築 膳所六門の一つだそうです。

膳所城天守閣かと思いきや市民センターのようでした。

義仲の墓と一緒に芭蕉の墓もあるそうですがいったい芭蕉の墓は何か所あるんでしょうか?

逢坂山碑、京都弁で逢う坂を『おうさか』と読むのですね。

逢坂山関所跡

大津絵とは何ぞや? 無知でした。

関所を抜ければうなぎ屋さんばかりの街道筋

一つ前の歩道橋を間違えて井筒屋さんの前に、店内で生八つ橋とコーヒーで一服を取り元に戻る

追分、難所のようで車石が敷かれていたと。

やっと京都市に踏み入れた。

五条の別れ って物語でも或るのかと思ってたら地名なんですね。

栗田口刑場跡、廃止された明治維新までに15000人が処刑され明智光秀もその一人だそうです。

龍馬、おりょうの結婚式場跡

GOALです。感激です。三条大橋です。此処が駅伝発祥の地です。

大橋の先に三条小橋がありました。そこに弥次喜多さんが

15:00頃の三条大橋から比叡山の方向中央の木の横から虹がでていました。
昨年の9月からスタートした五十三次の旅、1年と4ヶ月、実日数28日
当時の女性が東海道を歩くには25日とか、それよりも遅いスピード女性にも劣る
車の旅では気がつかなかった事、この歩き旅で良く知ることができました。
例えば地域文化、風習の違いから家屋の造りまでもが違ってるのに気付かされます。
勿論、食文化の違いなどは敏感に感じ取れます。
関西は商人の文化を採り入れ 関東は武士の文化を採り入れた生活のスタイル
変わらないのが西へ行っても 東に行っても土地土地のお兄いさん、お姉いさんが
とても親切で優しい人達でしたね!!
完
53次大津宿へ
11月17日 (土) 晴れ
昨夜の宿、草津エストピアホテルから石部駅に戻り8:20 琵琶湖に向かってスタートです。

駅から街道に出ると西縄手

旧和中散本舗 旅に持ち歩く薬をここで足してたのかな和中散・・・いい薬です。

本日最初の一里塚跡は117里、六地蔵一里塚跡

明治から続く『里内呉服屋』さん

手原醤油屋さんは地元の名士らしき人物のようです。

鈎の陣所・・・陣を構えた足利九代将軍義尚が六角氏討伐中25歳で病死

瓢箪の産地か? 何故、タイヤの付いた馬と牛が

目川一里塚跡

田楽発祥の石碑 八丁味噌の三河が本場かと思ってました。

此処に来るまでの途中、老牛馬養成所跡碑を過ぎて宿場へ入る道が工事中の為、一般道を直進
トンネル手前アーケード街の中山道へ入って数百ⅿ中山道を歩き本来の草津宿追分に到達

草津宿本陣

道潅蔵 今回は多くの酒蔵を見かけます

野路一里塚跡

立場跡

月輪池一里塚跡、120番目で残すは後4つ いつの間にか大津に入っていたようだ

日本三大古橋の一つ『瀬田の唐橋』 琵琶湖に着きました。
唐橋を渡りその先、東海道本線石山駅まで歩き本日の旅を終え 次回は最終の地
三条大橋へと参ります。
土山宿~石部宿
11月16日(金) 晴れ
スタート場所まで、今日が一番長い移動距離で大船駅、小田原駅、米原駅、草津駅と乗り換え貴生川駅に着き
駅前からバスで新前野下車、頓宮の里に来て9:40 京まで残りわずか さぁ~スタートです。

頓宮の里・・・天皇が京から伊勢神宮に向かう途中に宿泊の為に仮宮(行在所)を設営
した場所のようです。

本日最初の一里塚跡は市場一里塚跡で江戸からは111番目

松並木だったそうだが残っているのはほんの僅か

50番目の宿場町、水口宿へと入ります。

今郷一里塚跡

江戸口見附跡、冠木門なんて在ると嬉しいね。

高札場跡

三筋の町とあるが3本の道は城への進攻を防ぐためであろう。旧東海道は真ん中の道

水口林口一里塚跡

街道蔵 美冨久酒造

泉一里塚跡

大沙川隧道とあるが川など見当たらなく隧道の上に弘法杉が一本、以前は2本杉だったとか

北島酒造、水口宿に入ってから造り酒屋は確か3軒目

是より石部宿

石部本陣跡

田楽茶屋 17:00残念ながら定休日か?

本日の最終地、石部駅に着いたがどうも石部一里塚跡を見過ごして来たらしい
石部には宿が無くこれから草津へ向かいます。
宿場町に宿が無いなんて なんでやねん!!
本日の昼食はソウルフード、素焼き焼きそばの有名店『谷野食堂』で素焼き(大)を注文
大の量がイメージより少なく食べてからもう一度、同じものを注文しました。
ソース焼きそばに慣れているとシンプルな味の素焼きやきそばがとても美味しかったです。
関宿~土山宿
10月26日(金) 曇り
初めてのロッジ宿泊、テレビが無く出前の夕食弁当を注文、届くまでの間
にこの旅で一番良いお風呂を頂き寝たのが8時半頃で一番早い就寝時間でした。
朝風呂を頂き朝食を食べてた時にはまだ小雨が降っていたが出発する時には
雨も上がり、厚い雲は薄く、山の霧もだんだん消えて無くなり天気は歩くには上々。

8:30 さあ、関宿 西の追分からのスタートです。

30分ほど歩いて本日最初の一里塚、一ノ瀬一里塚跡は107番目

坂下宿に入り小竹脇本陣跡

鈴鹿峠越えの入口

鈴鹿流薙刀発祥の地とは鈴鹿山中に

芭蕉の句『ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山』

峠にきたようです。

国境、近江国に入ります

山中一里塚跡と鈴鹿馬子唄石碑(坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る)
憶えやすいフレーズです。

土山宿碑は道の駅の裏側に

伝承文化館

土山宿一里塚跡は110番目

本陣跡、問屋場跡

頓宮交差点、バス停は新前野、石碑には『斎王の里 頓宮』
この地、甲賀市を寅は今まで『こうが』と言っていましたが表示のローマ字に『こうか』
連れもこうがの認識、知らなかったぁ~!!
一つ、旅の甲賀があったのかもネ。
14:30本日の終了です。
地元のあいくるバスで高速土山サービスエリアまで行き高速バスで近鉄四日市駅
まで後は近鉄、新幹線、JRと利用
此処まで来ると行き帰りの交通手段に苦労する。
濱の寅作 甲賀迷子歌
『朝はやく あいには来たが 楽しむと 帰りの便に 苦労する』
庄野宿~関宿
10月26日(金) 前回に続き14:00以降、宿が見つかる所まで・・・
前回は和田一里塚跡までの投稿でしたのでその先を行きます。

和田一里塚跡から40分程で江戸口門跡へ

樋口本陣跡

高札場跡の立て札が折れて地べたに置いてあるのが悲しいね・・・

亀山宿石碑

京口門跡

野村一里塚跡は日本橋から105里

高速道路高架下に4宿の絵

関宿への入口

小萬のもたれ松と書いてあるが松の木が無い

関宿東の追分で一里塚でもある

いい雰囲気を醸し出してる宿場町です。

御馳走場跡とあるが料理を提供する所ではなく高貴な方を役人が出迎える所だそうだ。

川北本陣跡

復元された高札場跡がいいね!

宿場の家並みが終わると西の追分、17:00 町にはチャイムが鳴り渡る

運良く山の斜面に『関ロッジ』が見えたので本日の宿を取る事にした。
石薬師、庄野、亀山、関と歩いて来たが街道松並木が無くなっていたのがとても残念でした。
だが、関宿場町に入るや真っ直ぐな道に格子戸の家並み、タイムスリップしたかのような光景が
とても良かった。
いよいよ終盤、明日は鈴鹿峠越えであります。
四日市宿~庄野宿
10月26日(金) 快晴
今回は東海道線一番電車で小田原へ小田原駅6:05発ひかりを利用
追分駅前を8:50スタートになりました。

スタートして40分ほどで此処は杖衝坂

坂道に芭蕉の句『徒歩ならば 杖つき坂を 落馬かな』

今日、初めての 采女一里塚跡は101番目

石薬師、是より1,8キロに佐佐木信綱の50首が表示された『カルタ道』

江戸時代の人かと思いきや1968年92才没、歌人、国学者だったそうです。

小澤本陣跡にも2首のカルタ

石薬師寺

石薬師一里塚跡

この道も東海道、松並木が欲しい所です。

田んぼ道を過ぎると庄野宿へ入ります

庄野本陣跡

高札場跡、何件か先の床屋さんに問屋場跡があります。

庄野宿、振り返れば短い宿場で900メートルのほぼ真っ直ぐな道

中富田一里塚跡は103番目

金次郎の顔が思っていた顔とは違うようだった

和田一里塚跡、江戸日本橋より104里
本日、現在14:00 まだまだこの先17:00まで歩きますが、一応これまで
江戸から歩き始めて尾張国に入ってからは何故か松並木が見られず桜の木を目にするが
桜は桜で楽しめますが、寅的には『東海道には松並木がよく似合う』って
太宰治が言ってたっけ?
桑名宿七里の渡し~四日市宿
9月22日(土) 曇のち晴れ
昨日は宮の渡しから桑名まで電車で移動したので何だか七里得したような気分です

桑名駅前のホテルを7:50 スタート

桑名宿七里の渡し場跡

徳川四天王と言われた本多忠勝の像

川沿いにミニ東海道

伊勢神宮常夜灯と里程標

縄生一里塚跡は97番目

当時は松並木だったのが近年桜並木に変わっていました。

川を渡り四日市へ茶店の在ったところに力石27貫目(100㎏)が設置している。

名残りの一本松

三ツ谷一里塚跡、99番目

アーケードの下を歩く旧東海道

日永一里塚は100番目の一里塚跡、塚も榎も無く悲しい限り

日永の追分、左は伊勢参宮道 右は東海道

石薬師宿への入口 追分にて本日の歩きは終了いたします。
今回の歩きでも見どころが多くてブログに載せきれず申し訳ございません。
何分未熟者で写真や文章をどのようにまとめてよいやら毎回苦慮していますのであしからず。
有松~桑名宿
9月21日(金) 雨のち曇り
今朝、横浜を出るときは小雨模様でしたが新幹線が静岡に入ると大粒の雨に変わりテンション下がる。
そして、愛知県に入り名鉄に乗り換えて外を見れば小雨に変わってホットする。
気も新たに名電豊明駅前を10:00スタート

本日最初の阿野一里塚跡(86番目) 歩き始めて10分です。

歴史に残る織田信長と今川義元の桶狭間古戦場跡

今川義元の墓 下剋上の時代です由緒ある武家がどんどん無くなっていくんですね

有松絞が有名 軒先にこのような暖簾が多くの家に吊るして有松( ^ω^)・・・

有松山車会館

西側外れの有松の街並

東海道二代目松

有松一里塚跡

鳴海宿東入口常夜灯

宿場西入口常夜灯 間の宿有松から比べれば鳴海宿内に残る面影が・・・ぁァ 寂しいです。
そして、この先は宮宿へと向かう

笠寺一里塚跡(88番目)

姥堂跡 都々逸発祥地とある 好きな文句で『惚れて通えば千里も一里、逢わずに帰れば また千里』なんてね。

宮本陣跡

七里の渡し跡 ここから桑名までの七里は海の東海道と呼ばれていたが海路は今や埋め立て地

熱田神宮に献酒された地酒銘柄の数々
これにて今日は神宮に参拝して歩きは尾張国、歩き旅で電車に乗るのもアレっと思いもしたが
神宮前からは なに桑名顔して電車で今宵の宿桑名まで
GOです。
![[電車]](https://blog.so-net.ne.jp/_images_e/30.gif)
岡崎宿~尾張国
7月28日 小雨交じりの中を8:00前にホテルを出発、
来週に行われる花火大会のセットを横目のしながら川沿いを進み昨日終えた街道へ戻ります。

お城から西八丁の距離(約870ⅿ)があることから八丁味噌と名付けられたのは有名ですね。

八丁蔵通り老舗の歴史が匂ってきます

八丁を抜け川を渡り旧道に入り国道に合流、やっと見えた松の木は旧道への入口

尾崎一里塚跡(83番目)

永安寺雲龍の松とは1,5ⅿの高さから真横へ南に13ⅿ北に10ⅿ東に7ⅿ程三方に伸びている

三十九次池鯉鮒宿碑(現在は知立の文字)三河国も最後の宿場となり何故か嬉しいです。

小林一茶の句碑『はつ雪や ちりうの市の ぜにかます』

万葉歌碑と馬市の跡碑

問屋場跡

知立城は桶狭間の戦いの時に信長の攻撃に落城
知立城址を後にして家康の側室お万の方の誕生地を通り過ぎ刈谷一里塚跡を目指すが
見つけられず富士松駅前まで来てしまった。
この先の境川を渡れば尾張国、鳴海宿へとなるが池鯉鮒宿と鳴海宿の間に間の宿と呼ばれる有松宿が
控えて有松( ^ω^)・・・。
今日は岡崎城下から尾張国、豊明駅まで来ました。
次回豊明駅前からのスタートは9月になって陽射しが弱くなってからになります。
赤坂宿~岡崎宿
7月27日 晴れ 9:30スタート

常夜灯と小さな祠が有り赤坂宿も終わり京に向かうと間の宿で本宿へとなる

30分ほど歩くと本宿碑

本宿碑の側に冠木門

宝蔵寺 竹千代が手習い学んだ処でもあるが 近藤勇の首塚もこの寺にあるという

東棒鼻先は市場改耕碑が有り先には常夜灯がある

本陣跡

本陣跡の裏にはむらさき麦の発祥地となっていましたが、むらさき麦って?

歌川広重の句碑『藤川の 宿の棒鼻見渡せば(西棒鼻先)杉のしるしと うで蛸のあし』

直ぐ先の十王堂には芭蕉句碑もあるが芭蕉ではなく(はせを)となっていました
『ここも三河 むらさき麦の かきつばた はせを』

踏み切りを渡れば松並木

もはや岡崎に大平一里塚跡は江戸から80里

岡崎城到着が15:30 もうこれ以上歩けない 見渡せば廻りにはホテル多しスーパーホテルにチェックイン
岡崎の街は来週の花火大会に備え河川敷には仕掛けや桟敷席などが設けてありました。
早めのチェックインだったので一休みしてから街へ晩飯に出かけ駅前通りの居酒屋で新鮮な魚に揚げ物など
とても美味しく食べることができました。近くに有ればリピーターになりますよ!!
店内チョッとうるさかったかな
今日という日、午前中はお腹の調子が悪く3度もトイレに駆け込み午後は暑い陽射しに遣られ
首と腕にはくっきりと日焼けの跡、帽子には塩が吹き持ち歩いてたタオル絞れば汗が落ちる
本当に辛い一日だった。
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